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2006年 04月 17日
ここでは、「本物と偽物を見極める」と重複する内容もでてくるので、既に、あちらを読んで下さった方は、よっぽど興味が無い限り、これを読むのがしんどくなると思います。ここでは、芸術と宗教の類似性に重点を置き、人間の直観と立証の関係について述べています。
「本物と偽物を見極める」の文章を書きながら、世の中にアートの域に本来入らないはずのアートが充満し、それらがあたかも重要な作品であるかのようにアート界で注目される不思議な現象とその絡繰について考えた。 「芸術なんて、全然分からないので。」と口にする人がいる。 人間ならば直観的になんとなくでも芸術がなんであるか、どうあるべきなのか本当は分かっているはずだと私は信じています。 目にする芸術と称される作品が自分の理解する芸術とは全く違うから、混乱しているのであれば、その「混乱」は、芸術を理解していないからではなく、まさに、その人の心が現時点で受け付けなかった作品だからなのだと思う。直感は、それを知っている。そして、それを素直に受け入れればいいのだと思う。そして、心が成長する余地があることを知っていれば、その作品をもう一度数十年後に観た時に、心が動かされることもあると思うし、その時点でも、やはりその作品が無意味なものに感じるのであれば、その作品が偽物の芸術だったと判断した自分の直観の正しさを認識することになるのだと思う。または、未だにその作品を受け入れる程自分の心が熟していないかのどちらかになるのではないかと考えた。でも、本当にいい作品は、いづれ心を打ちます。芸術との付き合い方は、自分に成長の余地があることを認識した上で、今の自分の直観と直感を信じることから始まると思う。 忙しい毎日の生活で自分の感性を育てる時間を省くこととなったために自分の感覚的な判断に自信を失った人や、自分の魂の存在理由を考えたり、それに触れる機会が無かった人などが芸術界の餌食になってしまうように見える。宗教界で言えば、神がなんなのか全然分からないと言っている人たちを導き、啓蒙し、そして場合によっては、自分の利益になるように洗脳する余地が沢山あるのと同じように、アート界も人間の心の直観や真実から相反した方向へと人を欺くことができる。だから、「人がアートだと言えば、それはアート」なのかと言えば、それは全く違う。でも、自分の直観を信じていない人は、その言葉を代わりに信じてしまう。そこが、アート界での要注意点である。まさに、アートは、宇宙とか、神とか、人間の直感と体験の世界で、それは言葉で定義できるものでは無い領域に入る。だから、精神世界を無視した「人がアートだと言えば、それはアート」などというとんでもない理屈をこねる余地がでてくるのだと思う。 私が知っている真の芸術とは、人間の心の世界を物理的に具現化したものです。そして、単なる視覚的な、そして物理的な刺激でありながらも、それは、我々の魂が潜在的に馴染み深いと感じることができる真実の空間に連れて行ってくれる、精神世界への入り口。人間の魂は、非物理的な存在であり、人間は、言葉では定義できない多くの真実を知っています。だから、真の芸術作品に触れたとき、それが本物かどうか直観で分かるのだと思う。そもそも、芸術は、何が芸術であるか「言葉」では「立証」できない空間なので、それは当たり前のことだけれど、その立証できない神聖なる領域を逆手にとり、芸術ではない芸術で一儲けしようと考えた人には、この業界の弱みを見つけたことになる。 芸術界では、「人間が感じる」ことができる機能、人間が生まれ持って授かった感性と知性をことごとく否定した作品があたかも本物の芸術のように存在し得る。それは、神と言う存在は、科学で立証できない限り、存在しないとまで言う人も出てくるのと同じ類の分野に入る。つまり、真っ向から精神世界と直観を信じていない人間が大多数に上れば、芸術も言葉によって説得された上で理解しようとするので、芸術の発想に頭から盲目的に追随し、感性を無視した偽芸術があたかも真の芸術であるかのように存在するようになるのだと思う。魂のこもっていない偽物アートも、見分けられなくなってしまう。しかし、人間は、そもそも精神的な生き物であることを忘れてはいけないというのが私の立場です。直観を否定し、精神を忘れた芸術は、もはや、作る方も、観る方も偽物同士になってしまう。 芸術作品が本物の芸術かどうかを判断する時、個々の主観と感性に判断が委ねられる。それは、目で見た世界を通り越し、言葉でくくれる世界も通り越した、まさに感覚と体験の世界です。作品は、飽くまでも、人間の、聖なる精神的空間に行きつく為の入り口にすぎない。芸術は、神と違って物理的に目の前に形として実在するけれど、作品を通して体験できる幅が、まさにその作品が真の芸術かそうではないのかを決めると思う。芸術も、私たちが神なる宇宙を包括するパワーの存在を心で感じるように、まさに宇宙に通じる人間の感性と直感を信用した、つかみ所の無い存在である。 より多くの作品に馴染み、沢山の作品に触れることで、自然と見る目が養われ、心も熟す。それ故に、以前「分からない」つまり、なにも心にピンとこなかった作品も、今観たら「分かる」、何か感じることが出来る作品になる可能性も出て来る。自分自身の成長によって、芸術を見た時の反応も変わる。それは、ごく自然なことだが、日頃から素直な心で先入観無しに作品を観れば、素晴らしい作品が自ずと分かる。その時分からなくても、どこか気になる作品として覚えているはずです。芸術は、ある意味で生きています。素晴らしい作品は、こっちの心の準備ができていたら、多くを提供してくれる。そして、真の芸術が我々に与えてくれる世界観は、立証できるものではないです。 「芸術なんて、全然分からないので。」 なんて言わないで欲しい。 今、自分が感じたこと、それを素直に受け入れればいいと思うから。 アート業界の宣伝に惑わされては、いけない。宣伝の通りの感想を抱かなくてもいいのだ。 自分の心の成長を見守りながら、自分の声に耳を傾ければ、ある日、真の芸術と出会った時に、大きな愛情であなたの心を包んでくれる時がくるでしょうから。
by superfineartist
| 2006-04-17 02:49
| 芸術論
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